今回の旅 石巻市①
2泊3日、石巻市と南三陸町を訪れました。
2011年3月11日の地震、津波発生から12年が経過し、初めて行きました。
新聞やニュース、SNSなどで読んだり、観たりしていたので「知って」はいたはずだったのですが
「知らなかった」ことばかりでした。
ここへ行こう、と思ったきっかけは、今年の3・11に黙祷をしている時に、ふと「福島以外の被災地へ行ってない」ということに気づいたからです。その日の夜に、大川小学校の話を聴けるところなどを検索しました。
そしてたどり着いたのが3.11メモリアルネットワークでした。
すぐに語り部ツアーを申し込みました。
でも誰が語ってくれるのだろう?遺族の方?
数日後にお返事をいただき、できるだけ語ってくれる方の都合に合わせたいので、例えば団体のツアーがある時に私たちも参加させてもらえるとか、、、、ということなどを伝えたのですが、私と太子2人のためのツアーでした。
先日のブログに、このツアーや、もう一つ参加させてもらった「南浜・門脇」という石巻市の市内の方のツアーについて、たくさん写真を撮ったり、お話を聴かせてもらったので、できるだけ詳細に記録しようと考えていたのですが、いや、それじゃダメだと思いました。
家族や親戚、友人などを亡くし、辛い経験をした被災者の方たちが「語って」くれているのに、私たちがそれを詳しく伝えようとするのはやめようと思いました。
ぜひ現地へ行って、聴いて、見て、歩いて、知ってほしいのです。
でもいくつか、私が重要だと思うことを少し書きます。
大川小学校は、石巻市内から少し離れていて、車がないと行ける場所ではありません。
私たちはレンタカーで、石巻市内から車で約30分の場所にある「震災遺構大川小学校」で、語り部の方と待ち合わせをしました。
語り部の三條さんが待っていてくれ、すぐに案内をはじめてくれました。
三條さんは、大川小学校出身で、震災当時は、大川小学校から約4km離れた海沿いの場所「長面」という地区で暮らしていたそうです。
津波で、息子さんを亡くされ、いろんな経緯を経て、この「大川伝承の会」の語り部となったそうです。
息子さんや三條さんのことが河北新報の記事になっています。
大川伝承館という、石巻市が運営している施設に掲載されていました。
先日のブログにも書いたように、私は、大川小学校と「逃げれば助かった」と言われている山という場所は、小学校からもっと離れていて、険しくて、行きづらい場所にあるのだと思っていました。
けれども実際には、大川小学校に着いてすぐにわかるのですが、文字通り「目の前」にあります。
そして、そこは、4月現在は特に草も生えていないし、歩きやすい道で、三條さん曰くツアーに参加した85歳のお婆さんでも登れたような「山」でした。
「山」というと、鬱蒼とした山なのかな、、、というイメージの方もいると思いますが
ここへ行きさいしたら助かっただろうという場所は、津波の到達地点から数メートル上、そしてコンクリートで作られた広場のような場所になっています。
当時、この場所に全校生徒と先生が集まったのだそうです。
「山」と呼ばれる場所は、後ろにあるところ。
津波の到達地点を赤い丸印をつけました。広場のようになっているコンクリートで作られた場所は、その少し上に2段あります。実際のその場所は、1番上の三條さんを撮影した場所です。もちろんこの場所は3・11よりも以前からありました。
児童と先生たちは、先生の指示の元、この反対の北上川の方へ向かって避難しようとして、川を遡上した津波に襲われて74名の児童と10名の教師が亡くなりました。
次に、石巻市内の門脇小学校のツアーです。
「南浜・門脇地区」では、藤間さんという方が「語り部」で案内をしてくれました。
地図の赤い線で囲った場所が津波で全て失われ、震災後は道路を隔てて「非可住区域」となった区域です。
この場所を歩きながら、当時どんなことがあり、どんな建物があったかなどを話してくれました。
有名なのは
この看板です。
震災後すぐに、この場所で会社を経営し暮らしていた方が、流れてきたベニヤ板を使って作った看板です。
この看板は3代目だそうです。
当時のことを話しながら、忘れないよう、今も5年に一度、石巻の小中学生が作り直しているのだそうです。
門脇には、保育所、小学校、中学校もありました。
保育所は、津波で失われそれ以降も再開することはなかったそうです。
門脇小学校は、震災で火事が起き全焼し、震災後は、門脇中学校の一部を借りて再開したそうですが、震災で生徒も減り、再建することなく閉校したとのことです。同様に門脇中学校も震災後に閉校したそうです。
さて、大川小学校の話をしている途中で、すぐに門脇小学校の話に移したのか?ですが
対照的だったからです。
上の写真が門脇小学校です。
ずっと津波の話を聴いてきたので、この小学校も津波に襲われたのだと思ったのですが
ここにきた津波は1・8m、建物の3階部分まで失われたのは、震災で発生した火事によるものでした。
この小学校にいた生徒、教師は275名全員が無事。
なぜかというと、震災以前から実施していた「避難訓練」では、「山側に逃げること」が徹底されていたのだそうです。実際に、ここの生徒だった方から聞いた話では、「山へ向かって逃げるということだけを思い出して必死で山に向かった」と話していたそうです。
少し話は長くなってきたので(とはいえ、いくら書いても話してもまだまだあるのですが)
石巻から南三陸町へ移動し、「つづき」を書きます。
つづく。